知るということ


知るということは偉大なことである。


なぜならば、知らないものは愛せないからだ。


人は自分に理解不能なものに出会ったとき、本能的に嫌悪感を抱くのではないだろうか。


Dhal Curryという食べ物がある。
アメリカに住んでいた頃、
当時はまだだんなちゃんじゃなかっただんなちゃんが
スリランカ料理と称して、このDhal Curryなるものを作ってくれた。
(画像はイメージです)
一目見て、何じゃこりゃーと思った。
そしてそれ以外に何も思えなかった。
私には理解不能な色艶形をしていたのだ。
今まで自分が見てきたどんな食べ物とも違う。
食べてみると、ますます何じゃこりゃーだった。
なんじゃこりゃーの大運動会だった。
何がどうなったらこんな食べ物になるんだ・・・
そう思って以来、私はDhal Curryが苦手になった。
とはいえ、それ以来その食べ物に出くわす機会は全くなかったので、苦手意識を感じることもなく年月は過ぎ、私も良いお年頃になった。


誠におめでたい事にだんなちゃんがだんなちゃんになって、スリランカでしばらく暮らすという運びになった。


なんという運命のいたずらか、私はこのDhal Curryと再会をはたす事になったのだ。存在すら忘れていた、あのDhal Curry。
だんなちゃん母が作ったDhal Curryをおいしそうに食べる家族一同。
そして、ここでだんなちゃんによる衝撃の告白。
Dhal Curryが一番好きな食べ物なんだ。」
この言葉を聞いた瞬間、再起動がかかったかのように、私の脳みそが激しく回転を始め、脳みそ以外の体の全機能がフリーズした。
どうやったら、こんな取り留めのないものが、一番好きな食べ物になれるんだ。
一番好きな食べ物って言ったら、私にとってラーメンみたいなもの。
このパンチも何もない得体の知れない食べ物のどこにそんな魅力があるんだ。
私の全身は疑問ではじけそうになった。
そこで、まずは食べてみた。
すると、私の記憶にあったものほど悪くない。
そういえば、うちのだんなちゃんはお世辞にも料理がうまいとは言えないんだった。
だからか・・・あんなに第一印象が悪かったのは・・・
と少し事態が飲み込めてきたように感じられたが、やはりこの食べ物にそこまでの魅力は見いだせない。
そこでだんなちゃんに、Dhal Curryの魅力をずばり聞いてみた。
すると、Dhalがうまいんだという。
なるほど。
そこだ。
Dhalって何よ。
ということでその実態にせまるべく、スーパーでDhalを買ってみる。
買ってみても良く分からない。
(こんなの)
だんなちゃん妹に聞いてみたところ、稲みたいな豆みたいなものらしい。
においをかいでも触ってみてもやっぱりぴんとこないため、
Dhal Curryを作ってみることにした。
「汝の敵を知れ」だったか
「敵を愛せ」だったか
どこかで聞いた言葉が脳裏をよぎる中、Dhal Curryは完成。
つまり私はDhal Curryの構成要素全てを理解したわけだ。
すると不思議なことが起こる。
これまで他人のように感じていたDhal Curryがふと身近なものに感じてくるのだ。
それどころか、ほんわかと愛情までわいてくるのだ。
そんな気持ちで食べてみて、はじめてDhal Curryを味わった気がした。
そしておいしいという人の気持ちが分かった。


こんな経験はこれまでにも何度かあった。


小学生の時に、野田のしょうゆ工場に社会科見学に行った。
豆がしょうゆに変わるまでの全工程を目の当たりにして、芳ばしい香りを全身に浴びて、今までなんとも思っていなかたしょうゆに私はすっかり魅了された。しょうゆってなんてすごいんだろう、こんなにおいしい物は他にないって、しばらくしょうゆ中毒になったものだ。


同じく小学生の時、学校の授業で、一から豆腐を作ったことがある。
時間と手間をかけて、豆があっつあつの豆腐に変わったときの感動。おからという付録までできて、豆腐の全てを知った瞬間だった。
今まで何年間も、何も考えずに食べてきた豆腐やおからが実はこんなにおいしいものだったとは、と衝撃に震えた。これ以上おいしいものは他にないと思い、しばらくは豆腐&おからモンスターになったものだ。


知らないものは愛せない。
愛するというのは、よく知り、よく分かっているということなのかもしれない。