はあちゅう主義。:小娘が何か言ってます。


なんだか今話題の『はあちゅう主義。:小娘が何か言ってます。』

これを読んだとき、妙に懐かしい感じがしました。
本当に懐かしいの一言でした。


何だろうこの感覚と思っていたら、
これ↓を読んで納得しました。
『いそがばまわれ』

是非ともこのリンク元↑を参照されたいのですが、
少し引用しますと、例えば:

さんざんニートに対して強調文字で(リンク先参照)非難しながら、後でこっそりと<ニートをよく知らないから全否定は出来ないけど>とさらっと書いてしまう。しかも、ニートに対して<非国民>とまでいっているのは誰だか知りませんが、他人の言葉ですね。こんなふうにあらかじめ批判をかわせるような書き方を自然にできるところがすごいと思うのと同時に怖いとも思いました。結局この人自身は何一つとして主張していません。

こんな意見↑に目を通して、気が付きました。
耳が痛いです。
はあちゅう主義。さん、
まるで昔の私です。
大学時代の私みたいです。つまり、社会に出る前。
(とはいえ、このブログはかなりの人気ブログのようなので、‘昔の私みたい’だなんておこがましくて言うべきではないんでしょうが…ごめんなさい、あえて言わせていただきます。)


私は社会に出て、こういうバッシングを沢山受けました。
言いたいことや自分の意見(だと思っていたもの)が沢山あって、
色々なことを主張したかったのだけど、
「結局なにも主張していないのと同じだ。」
とかよく言われました。


「ものを言うのって大変なんだな」って生まれて初めて思ったものです。
それから、何かを主張するのがちょっと怖くなったりしました。
例えば、こんなプライベートなブログでさえも、今ではズバズバいうのが躊躇われます。
「プライベートなブログなんだから、何書いたっていいんだ」と思ってはいるのですが、
なんというか習慣みたいなもので、知らず知らずに縮こまる私がいます。


私は自分のこの変化を今のところ‘プラスの成長’と捉えています。


しかし一方で、はあちゅう主義。さんを応援したいです。縮こまることなく、思いっきり言いたいことを言い続けて欲しいです。(もちろんTPOは考えなければなりませんが、少なくとも個人的なブログで何を言ってもいいはずです。)


私が、言いたいことをのべつ幕なしに言いふらしていた頃、
私はこう考えていました。
「私の意見を聞いて、聞き手がそれぞれ何かを考える際の参考にしてくれればいい」と。
確かに、何かを主張するには無責任とも取れるのかもしれません。
でも現に、『はあちゅう主義。:小娘が何か言ってます。』を取り巻いて、いろんな人が色々なことを考えているではないですか。
「考えるきっかけとして、面白いネタを提供しているんだ」
くらいにしか私は考えていませんでした。
(彼女がどう考えているのかはわかりませんが。)


彼女が今後ものの言い方をどのように変化させていくのか、ハタマタ変わることはないのか、という点が私には興味深いです。
それは、私にはどんな選択肢があったのかを教えてくれるんじゃないかと思うからです。